トンデモない一行知識の世界 OLD - 唐沢俊一の「雑学」とは -

一部で有名な唐沢俊一の一行知識に、ツッコミを入れたり派生トリビアを書いたり。
「愚かで分別のない人と思われたいなら、唐沢俊一のトリビアを引用しなさい。」

 
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2008/5/11  16:43

ロラン・バルトの言葉を正確に引用していないので要注意  『トンデモ一行知識の世界』間違い探し編

『トンデモ一行知識の世界』の P.137 ~ P.138
 自らも同性愛者だった哲学者のロラン・バルトはこのグローデン男爵の
モデルたちが嫌いだったようで、彼らのことを
「ひからびた昆虫の青光りする腹の部分のような、暗く沈んだ視線を放つ、
田舎の悪ガキども」
 と、ひどいことを言っている。しかしそれでもやはり、グローデン男爵の
写真は気にいっていたのだろう。
「とはいえ、見ていて楽しくないわけではない」
 と、本音ももらしている。インテリというのは素直でないものだ。
「神話の崇高なソフトイメージは、写真というリアリズムと衝突する。この
“衝突”という言葉には、見ている我われの驚きと喜びがひとつになって
含まれている。この写真の中のかわいらしいギリシアの神々(日に焼けた
肌がすでにそれっぽくない)のうす汚れた大きい手には不格好に爪が
生え、足もすりきれてしかも汚れている。
 その丸見えの、皮をかむったペニスはふくらんでおり、ギリシアの彫像
のように、さきの尖った小さな形に様式化されていない。
 わかるのはそれだけだ。つまり、男爵の撮った写真は、神話的であると
同時に解剖学的なのだ」
 ……いかにも、本物の同性愛を実践した経験のある者の意見と言えよう。

×昆虫の青光りする腹 ○昆虫の青光りする胸
×ペニスはふくらんでおり ○包皮は膨らんでおり
×神話的であると同時に ○崇高であると同時に

パクリ指摘の方は、「『ギリシア彫刻のように』も他人の翻訳からのパクリ」で。

グローデン男爵のモデルたちが嫌いだったようで」というのは、ガセ。

ひからびた昆虫の青光りする腹の部分のような、暗く沈んだ視線を放つ、田舎の悪ガキ
ども
」 と「とはいえ、見ていて楽しくないわけではない」 の部分は、写真集『Taormina』の
解説文 (英訳版) 、上に引用した唐沢の文章のパクリ元と考えられる西野嘉章訳、そして
比較対象としてあがっている沢崎浩平訳では、それぞれ次のようになっている。

写真集『Taormina』の解説文
> the result is a delicious contradiction of all the literary baggage from a Greek
> version of Antiquity, peopled with little peasant gigolos' dark bodies (if any of
> von Gloeden's models are still living, I beg their pardon; this is not intended as
> an insult) wearing expressions as heavy as the blue from luminous corselets
> of burned insects.


『GS・たのしい知識 vol.2 特集 POLYSEXUAL~複数の性』 P.274~275
『フォン・グローデン男爵』ロラン・バルト 訳:西野嘉章
>ともかく、ギリシア版古代のこうした文学むき七つ道具一揃いと、乾涸びた昆虫の
>青光りする胸のような暗く沈んだ視線を放つ、田舎の悪タレども(御存命の方がおり
>ましたら、御勘弁下さい。悪気はございません)の日焼けした体とのチグハグぶりが、
>見ていて楽しくないというわけではないのだ。


ロラン・バルト『美術論集』(沢崎浩平訳 みすず書房)『ヴィルヘルム・フォン・グローデン』
>にもかかわらず、このようなギリシャ版文学的「古代」一式と、焼け焦げた昆虫の胸の
>光沢ある青にも似て、暗く、重たい眼をした、農村出の囲われ男 (まだ存在するなら、
>お許し頂きたい。これは蔑称ではない)の黒い身体との矛盾は快いのである。


唐沢俊一の文章では、ロラン・バルトがいったんモデルの容姿を酷評し不満を表明して
から、「とはいえ、見ていて楽しくないわけではない」と「本音ももらしている」ことになって
しまっているが、バルトは「田舎の悪ガキどもとはいえ、見ていて楽しくないわけではない」
といってるわけではない。ここの「とはいえ、」は捏造といってよいだろう。

唐沢俊一は、英訳版の中の「all the literary baggage from a Greek version of Antiquity
も、「(if any of von Gloeden's models are still living, I beg their pardon; this is not
intended as an insult)
」の部分も、なかったことにして、文意を変更してしまっている。

バルトは、西野訳でいうところの「ギリシア版古代のこうした文学むき七つ道具一揃い
――沢崎訳では「ギリシャ版文学的『古代』一式」、これらはグローデンの写真に使われた
トーガやオリーブの木、ブドウの蔓などをさす――と、田舎の少年たちとの「チグハグぶり
が、見ていて楽しくないというわけではない
」と語っているのだ。


また、西野嘉章訳に訳注として挿入されたと思われる「〔ギリシア彫刻のようには〕」を
地の文に埋め込んでいたり、「この写真の中のかわいらしいギリシアの神々」の直前に
本来入るべき「because what is a photograph thus conceived, if not an image where
everything is seen, a collection of details without hierarchy and without the Classical
concept of unity.
」に対応する文章を断りもなく省略していたり、バルトの語ったことの
引用としての質は低い。



http://www.23ch.info/test/read.cgi/books/1208837414/

798 :無名草子さん:2008/05/04(日) 14:25:05
『トンデモ一行知識の世界』の P.137 ~ P.138
 --------------
 自らも同性愛者だった哲学者のロラン・バルトはこのグローデン男爵の
モデルたちが嫌いだったようで、彼らのことを
「ひからびた昆虫の青光りする腹の部分のような、暗く沈んだ視線を放つ、
田舎の悪ガキども」
 と、ひどいことを言っている。しかしそれでもやはり、グローデン男爵の
写真は気にいっていたのだろう。
「とはいえ、見ていて楽しくないわけではない」
 と、本音ももらしている。インテリというのは素直でないものだ。
「神話の崇高なソフトイメージは、写真というリアリズムと衝突する。この
“衝突”という言葉には、見ている我われの驚きと喜びがひとつになって
含まれている。この写真の中のかわいらしいギリシャの神々(日に焼けた
肌がすでにそれっぽくない)のうす汚れた大きい手には不格好に爪が
生え、足もすりきれてしかも汚れている。
 その丸見えの、皮をかむったペニスはふくらんでおり、ギリシアの彫像
のように、さきの尖った小さな形に様式化されていない。
 わかるのはそれだけだ。つまり、男爵の撮った写真は、神話的であると
同時に解剖学的なのだ」
 ……いかにも、本物の同性愛を実践した経験のある者の意見と言えよう。
 --------------
「」で囲まれたロラン・バルトの言葉なんだけど、これは雑誌からの引用なのか、唐沢が独自に
訳したものなのか。前者なら引用元明記をサボっているのはマズいというか盗用の可能性ありだし、
後者なら、誤訳探しも楽しそうなんだけど。

815 :無名草子さん:2008/05/05(月) 01:41:09
『GS・たのしい知識 vol.2 特集 POLYSEXUAL~複数の性』
p.274~275掲載
『フォン・グローデン男爵』ロラン・バルト 訳:西野嘉章

 (略) 乾涸びた昆虫の青光りする胸のような暗く沈んだ視線を放つ、
田舎の悪タレども(御存命の方がおりましたら、御勘弁下さい。悪気は
ございません)の日焼けした体とのチグハグぶりが、見ていて楽しくない
というわけではないのだ。

かくして神話の崇高なるソフトなトーン全体は、写真のレアリスムとの
衝突collision(われわれの驚愕ぶり、またおそらくわれわれの歓喜ぶり
を理解してもらうには、この言葉を使わなければならないのだ)に突入
する。なぜなら、このようにして考え出された一枚の写真、それは、
何もかもが見える映像、序列のない、《秩序》(古典的大原則)のない
細部の寄せ集めでないとしたら、一体何なのだろうか。これらのかわい
らしいギリシアの神々(浅黒い膚がすでに異議を唱えている)のうす
汚れたゴツイ手には不格好に爪がはえ、足もすりきれて汚い。丸見えの
包皮は膨らんでおり、〔ギリシア彫刻のようには〕様式化されていない。
つまり、先の尖った小さな形にはなっていない、割礼は受けていない、
わかるのはそれだけだ。つまるところ男爵の写真は崇高であると同時に
解剖学的なのである。

(※ 引用部分2節目第5行の「何もかもが見える」の部分には、原文では
傍点が付けられている)
写真集掲載の英文(原文は仏文だろうが)も、要望があれば引用する
つもり。さすがに今晩はしんどいので、日を改めて。

817 :無名草子さん:2008/05/05(月) 01:49:39
ちょっと訂正orz

引用部分2節目第3~4行
× に突入する。なぜなら、
○ に突入する、なぜなら、

818 :無名草子さん:2008/05/05(月) 02:00:49
>>815
うわ、ありがと。
やっぱり >>798 はパクリ+劣化コピーだなあ、これは。
で、「哲学者のロラン・バルトはこのグローデン男爵のモデルたちが嫌いだったようで」
というのはもう、ガセにカウントしてもよさそうな。

819 :815:2008/05/05(月) 02:21:02
ロラン・バルトは引用箇所の前で、グローデンの過剰なまでの神話的な
演出について触れ、しかし彼は「それをアフリカ的肉体でいっぱいにする」
と書いてるんだよね。
で、「多分正しいのは彼の方だ、古代風のドレープはアラブ人たちの間
にしかはっきり見られないと、画家ドラクロワも言っていた」(訳:西野
嘉章)と続けている。
続く引用箇所で(略)とした部分は、「ともかく、ギリシア版古代の
こうした文学むき七つ道具一揃いと、」となっている。

820 :無名草子さん:2008/05/05(月) 02:30:30
>>819
文学向き七つ道具というのは、ここら辺の話かしら。(ハズしていたらごめん)

>Roland Barthes is quite correct in observing that von Gloeden has taken "the antique
>codex, hyperbolized it, applied it in inspissate layer (ephebi, shepherds, ivy, palm
>branches, olive trees, grape vines, togas, columns, stone slabs), but, (the first distortion)
>he mixes the antique symbols, lumps together the Greek vegetation cult, Roman figurine
> sculptures, and the 'classical nude' which stems from the Ecole des Beaux Arts."'

823 :819:2008/05/05(月) 02:58:55
>>820
それで合ってるよ。
ロラン・バルトは、それを「手垢まみれの神話」(worn-out legend)と
表現している。

871 :829:2008/05/05(月) 22:14:06
英文引用の前に

>>798の唐沢の文を読むと、ロラン・バルトはグローデン作品を(同性愛的嗜好
から)内心気に入りつつモデルの容貌に不満を漏らし、後から言い訳をしながら
評価の意を示していることになっているが・・・

最初に引用されている「田舎の悪ガキども」云々は、「文学むき七つ道具一揃い」
との対比にこそ意味があるのに、唐沢はその部分は完全に無視している。
また、続く唐沢による引用(神話の崇高なソフトイメージは…)では、最初の引用
箇所との間の文章が、あっさりスルーされているが、スルーされた部分こそが、
このバルトの文章の主題に関わる重要な部分なのだ。そこには、

>その上、フォン・グローデンの写真は、演出(ポーズと設定)の面で《芸術的》
>なのであって、けっして技術的な面でそうだというわけではない(ソフトな
>トーンも念入りな照明もほとんどない)。肉体がそこにある、ただそれだけだ。
>そしてその中で裸体性と真実、現象と実体が融合し合っている。(訳:西野嘉章)

と書かれている(一部引用)。

バルトの興味の中心は、グローデン作品における過剰なまでの神話的舞台設定と
俗悪とも言える現実的肉体とのちぐはぐさであり(バルトはh師屍ologies=ごった
煮と呼んでいる)、それが生み出す怪物的な魅力だ。それは文章全体を通して一貫
している。
どうも唐沢は、三島由紀夫のエッセイの件(これも検証の途中だが)についても言え
ることだが、文章を断片的にしか読めず、結果的に「前後の文の繋がりを見落とす」
「作品の主題を読み解けない」で終わるという傾向があるように思えるのだが。

874 :871:2008/05/05(月) 22:31:07
あ・・・やっぱり文字化けした。
>>871で「h師屍ologies」となっているのは、原文では「heterologies」で、
但しすべての「e」にアキュートアクセントが付いている。

885 :無名草子さん:2008/05/06(火) 00:18:35
さあ、ロラン・バルトの文章の英文版を引用させてもらう。
あくまで唐沢による引用の該当箇所のみ。
但し、変なところで文章を切ると意味が通らなくなるので、前後の文が余分に
くっついている箇所もある。
一応、校正はしたつもりだが・・・

It hardly matters ─ the result is a delicious contradiction of all
the literary baggage from a Greek version of Antiquity, peopled
with little peasant gigolos' dark bodies (if any of von Gloeden's
models are still living, I beg their pardon; this is not intended as
an insult) wearing expressions as heavy as the blue from luminous
corselets of burned insects.

The sublime soft focus of legend collides (this word is necessary
to describe our astonishment and also, perhaps, our joy) with
photographic realism, because what is a photograph thus conceived,
if not an image where everything is seen, a collection of details
without hierarchy and without the Classical concept of unity. These
little Greek gods (already a contradiction because of their dark color)
have peasants' hands, somewhat dirty, with large, misshapen nails;
hardened feet, not very clean; and swollen, clearly visible foreskins,
which are unstylized, that is, not slenderized and tapered: our
attention is drawn to the fact these figures are clearly uncircumcised.
The baron's photographs are at the same time sublime and anatomical.

891 :885:2008/05/06(火) 02:05:44
さすがに今晩は早めに寝かせてもらうが、現時点で気付いている
点(未整理and間違っているかも?)を少しだけ書いてみる。

「衝突」という言葉に続く()内の説明が唐沢の文では、()で
括らずに「この “衝突”という言葉には、見ている我われの驚きと
喜びがひとつになって含まれている」と表現している。これは、
西野訳との違いを出すために、無理に改変したものではないか?

「わかるのはそれだけだ」という語は、写真のモデル達が割礼を
施されていないという事実を指すものと思われるが、(もう少し
よく読んでみないと断言はできないが)それが唐沢には読めて
おらず、「丸見えの包皮は」「割礼は受けていない」(西野訳)を
「皮をかむったペニスは」にまとめてしまったのではないか?
そのため、「わかるのはそれだけだ」が意味不明になってしまって
いる。

英文には(おそらく仏文にも)「包皮」という言葉は出てくるが
唐沢の書いている「ペニス」という言葉は出てこない。

895 :無名草子さん:2008/05/06(火) 03:36:34
まあ、>>798 の前半の要約はデタラメと言ってよいでしょう。
(if any of von Gloeden's models are still living, I beg their pardon; this is not intended
as an insult) の部分を意図してすっ飛ばしているんだから、捏造とも言える。
little peasant gigolos' dark bodies とかはちょっとヒドい言い方かもしれないが、
「ロラン・バルトはこのグローデン男爵のモデルたちが嫌いだったようで、」は違うだろと思うし、

>しかしそれでもやはり、グローデン男爵の
>写真は気にいっていたのだろう。
>「とはいえ、見ていて楽しくないわけではない」
> と、本音ももらしている。インテリというのは素直でないものだ。

って別にロラン・バルトはツンデレな文章を書いていないぞと。

896 :無名草子さん:2008/05/06(火) 04:05:59
>>891
"that is, not slenderized and tapered: our attention is drawn to the fact these
figures are clearly uncircumcised. " の部分を、>>815 の西野訳では
「つまり、先の尖った小さな形にはなっていない、割礼は受けていない、
わかるのはそれだけだ。」にしているのよね?
「わかるのはそれだけだ。」の前は読点であって句点でない。「つまり~それだけだ。」
までは 1 つの文。

>>798 に引用した唐沢の文章では、「わかるのはそれだけだ。」で段落を変えている。
(改行が入って 1 文字字下げなのは、原文の通り)。
なので、「それ」のさす範囲が、何だか「神話の~」以降全体をさすようにも思える。


結構腹が立ったのは、>>815 の西野訳にある「〔ギリシア彫刻のようには〕」って、
これ訳注じゃないか。これをいただいて、地の文に紛れ込ませているのが >>798。

> その丸見えの、皮をかむったペニスはふくらんでおり、ギリシアの彫像
>のように、さきの尖った小さな形に様式化されていない。

こういうパクリ方をしておいて、西野訳を参考にしたという事実をふせるんだからなあ。
もっとも、「皮をかむったペニスはふくらんでおり」とか誤訳レベルに改悪してもいるから、
名前を出されたらかえって迷惑という可能性もあるが。

902 :無名草子さん:2008/05/06(火) 11:14:05
素人訳だけど、“the result is a delicious contradiction”は
「結果的に非常に楽しいものになっていることは否定できない」とも
訳せるね。
唐沢が、

>「とはいえ、見ていて楽しくないわけではない」
>と、本音ももらしている。インテリというのは素直でないものだ。

と書いているのは、訳文の雰囲気から受けた印象じゃないかな?
それに、バルトが「見ていて楽しくないわけではない」と言っているのは
「ギリシア版古代のこうした文学むき七つ道具一揃い(西野訳)」と
モデルの肉体(西野訳:田舎の悪タレども)とのギャップについて。
一旦モデルの容姿を酷評しておいて、後から言い訳がましく評価できる
要素を挙げているわけではないのだ。

916 :無名草子さん:2008/05/06(火) 13:46:43
>>895
>の部分を意図してすっ飛ばしているんだから、

意図的というより、文意が理解できてないから「そこが抜けると意味が
通らなくなるのに」といった部分を平気で無視するんじゃないかなあ?
最初の引用の後、重要な文章をスルーして「この写真の中のかわいらしい
ギリシャの神々~」の引用に進むのも、ロラン・バルトの写真論の本質
よりも、モデルの外見の直接描写に目をとられているからかも。
もっとも、唐沢は『トンデモ一行知識の世界』でバルトの写真論そのもの
について語りたいわけじゃないだろうが。

928 :無名草子さん:2008/05/06(火) 16:45:01
西野訳の、唐沢によって分断されてしまった部分を復元しておこう。

>ともかく、ギリシア版古代の こうした文学むき七つ道具一揃いと、乾涸びた
>昆虫の青光りする胸のような暗く沈んだ視線を放つ、 田舎の悪タレども
>(御存命の方がおりましたら、御勘弁下さい。悪気は ございません)の
>日焼けした体とのチグハグぶりが、見ていて楽しくないというわけでは
>ないのだ。

ロラン・バルトは上記引用箇所の前に、>>820にあるような「文学むき七つ
道具」とモデルの肉体とのギャップについて言及し、しかしそのギャップは
「見ていて楽しいものであることは否定できない」と言っているのだ。
唐沢の言う「と、本音ももらしている。インテリというのは素直でないものだ」
からは、同性愛者の立場から関心を示しつつ後から遠回しに支持しているように
読める。誤読というものだろう。

http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1210096847/
24 :無名草子さん:2008/05/07(水) 22:49:41
前スレで予告した、ロラン・バルト『美術論集』(沢崎浩平訳 みすず書房
1986年・第1刷発行)より、『ヴィルヘルム・フォン・グローデン』の
一部を引用。
沢崎浩平氏(故人)は、ロラン・バルトの翻訳では有名な人らしい。

最初は『トンデモ一行知識の世界』中の該当部分のみ引用しようと思ったが、
省いてしまっては意味が通らなくなりそうな箇所は多めに追加しておいた。

>にもかかわらず、このようなギリシャ版文学的「古代」一式と、焼け焦げた
>昆虫の胸の光沢ある青にも似て、暗く、重たい眼をした、農村出の囲われ男
>(まだ存在するなら、お許し頂きたい。これは蔑称ではない)の黒い身体との
>矛盾は快いのである。

 (略)

>しかも、フォン・グローデンの写真が《芸術的》であるのは、演出(ポーズ、
>背景)によるのであって、撮影技術によるのでは全然ない。ぼかしや凝った
>照明はほとんどない。身体があるのみだ。彼においては、裸身と真実、現象と
>本質が入り混じっている。男爵の写真は冷酷なジャンルに属する。(続く)

※上記最終行の「冷酷な」には、原文では傍点が付く

25 :24:2008/05/07(水) 22:50:41
>(続き)伝説の崇高なぼかしは、こうして、写真のレアリスムと全面的に衝突
>する(われわれの驚愕と、おそらく、われわれの歓喜とを説明するために、この
>衝突という語が必要なのだ)。というのは、このように考えられた写真は、
>あらゆるものが見える映像でないとしたら、上下関係のない、《秩序》(古典
>主義の大原則)のない細部の集まりでないとしたら、何者でもないからである。
>だから、これら小柄なギリシャの神々(すでにその黒い肌によって矛盾している)
>の足は、太い爪をよく切っていないし、少し汚れており、田舎者風である。
>足はあまり清潔でなく、すり切れている。はっきりと見える包皮はふくらんで
>おり、もはや様式化されていない。小さく、ほっそりとしていない。割礼を
>受けていないからである。こういうことしか見えない。男爵の写真は崇高である
>と同時に、解剖学的なのである。

※4行目の「あらゆるものが見える」には、原文では傍点が付く

26 :24・25:2008/05/07(水) 23:10:21
西野訳で“gigolos”を「悪タレども」と訳していることに違和感を感じていたが、
フランス語の「ジゴロ」は、「ヒモ」「若いつばめ」だけでなく、「不良」という
意味合いで使われることもあるそう。
http://zokugo-dict.com/12si/jigolo.htm

原文のニュアンスにより近くなるよう意訳をしているようだ。
(日本語の「彼は○○の太鼓持ちだ」を英語に直訳しても欧米人には通じないのと
同じだろう)
沢崎訳の「囲われ男」は直訳に近いが、「ジゴロ」「ヒモ」としなかったのは言葉の
ニュアンスに幅を持たせたかったのかもしれない。

27 :無名草子さん:2008/05/08(木) 01:19:18
>>26 乙です。
>フランス語の「ジゴロ」は、「ヒモ」「若いつばめ」だけでなく、「不良」という
>意味合いで使われることもあるそう。

へえ。でも、何か、沢崎訳の「囲われ男」の方が好きだなあ。
お貴族様の趣味で、金貰ってヌードモデルになっているという先入観があるせいか。

28 :26:2008/05/08(木) 01:41:14
↓読点を入れた方がよかったね。
 どうでもいいことだけどw

× 原文のニュアンスにより近くなるよう意訳をしているようだ。

○ 原文のニュアンスに、より近くなるよう意訳をしているようだ。



   
 
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