トンデモない一行知識の世界 OLD - 唐沢俊一の「雑学」とは -

一部で有名な唐沢俊一の一行知識に、ツッコミを入れたり派生トリビアを書いたり。
「愚かで分別のない人と思われたいなら、唐沢俊一のトリビアを引用しなさい。」

 
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2008/10/12  2:12

朝日の書評でも時空を歪ます  その他の雑学本 間違い探し編

まあ朝日の書評も、「社会派くん」の Web 連載同様、雑学本の一種 (?) ということで。

http://book.asahi.com/review/TKY200810070096.html
ぼくらの時代には貸本屋があった [著]菊池仁

 高度経済成長期の子供たちはなぜ、ああもチャンバラが好きだったのだ
ろうか。いや子供は大人のまねをするもので、評者も子供のころ、大の大人
が熱を込めて、眠狂四郎と座頭市が勝負したらどちらが強いか、などという
ことを語りあっているのを聞いたことがある。1950年代末から60年代を
通しての日本は、まさにチャンバラ・エージであり、そしてそのブームを陰で
支えていたのが貸本屋に並ぶ多くの剣豪小説であった。
 これは戦後の、企業国家として新たな秩序を整えつつあった日本で、そこ
に生きる大衆が“企業の論理”に取り込まれつつあることの反映だった。
企業戦士である自分たちの姿を、『柳生武芸帳』での、組織の一員として
戦う剣士たちに重ね合わせるか、または『眠狂四郎無頼控』の主人公・
狂四郎の非現実的なまでのニヒリズムに共感を得てストレスを解消するか。
どちらにせよ、貸本をその発信源とする、大衆の意識のうねりというもの
が、あの時代の日本にはあったのである。
 本書は、そのタイトルから最近はやりの昭和30年代ノスタルジーものと
思われがちだが、著者の貸本体験をもとに柴田錬三郎、五味康祐、村上
元三などの作家を論じた大衆作家論であり、日本戦後論でもある。
 著者は椎名誠らが創刊した、ユニークな書評雑誌「本の雑誌」の常連
執筆者でここの書き手らしく膨大な読書量を誇りながら、その読書目的は
“とにかく面白いものを読みたい”という願望に集約され、いわゆる文芸
評論的な臭みを排除、というよりは嫌悪している風があった。
 今回のこの著作では、いくぶん文芸評論的な部分もあるが、やはり、
自分の読書体験の原点を行きつけの貸本屋のおばさんとのやりとりに
持ってきているあたり、嫌みがなく、非常に好感が持てる。時代小説中心
に語って、最後に恋愛小説や学園ものといったジャンルにさらりと触れて
いる構成もにくい。願わくは、次の本では現在の読書界で忘れ去られて
いる、当時の貸本屋限定の人気作家も取り上げてもらいたい。

上に引用した文章で、「本書は」ではじまる三段落目は、書評全体のちょうど半分あたり
に位置している。いつものこととはいえ、もう少しはやく、紹介する本それ自体の話を
してくれないものかと思うが……。

2ちゃんねるのスレへの書き込みでも指摘されていたけど (Read More 参照)、五味康祐
の『柳生武芸帳』も、柴田錬三郎の『眠狂四郎無頼控』も、1956 年に創刊された「週刊
新潮」に連載されていたもの。「貸本をその発信源とする、大衆の意識のうねり」という
ことに話をつなげるのは不適切だろう。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0352.html
> 昭和31年(1956)2月、「週刊新潮」が創刊された。「週刊現代」「週刊文春」「朝日
>ジャーナル」「少年マガジン」「少年サンデー」が一斉に登場した年より、3年はやい。
> 先駆者好きの父がその「週刊新潮」を毎週買って帰ってきた。昵懇の草柳大蔵を
>応援していたらしい。そこはよく聞いておけなかったのだが、その創刊号から2本の
>時代小説が長期にわたって連載されることになった。五味康祐の『柳生武芸帳』と
>柴田錬三郎の『眠狂四郎無頼控』である。
> 二つとも破天荒でとんでもない小説だったが、当時のサラリーマン(ビジネスマンとは
>言わなかった)のほとんどが目を通した。両者とも独自の文体と奇妙なエロティシズム
>で鳴らしていて、五味はそこに加えて漢文趣味と集団的孤独感と忍者性というものを、
>柴田はそこに机竜之介につらなるモダンなニヒリズムとダンディズムを調味していた。


また、唐沢俊一自身、「当時の貸本屋限定の人気作家も取り上げてもらいたい」と文章
を結んでいるくらいだから、この本が「貸本をその発信源とする、大衆の意識のうねり」を
テーマにしているわけではないという認識でいると思われる。

また、「いわゆる文芸評論的な臭みを排除、というよりは嫌悪している風」とまで書いて
おいて、すぐ後に「今回のこの著作では、いくぶん文芸評論的な部分もある」と続くのも、
結局文芸評論的なのかそうでないのか聞きたくなる。

ちなみにオンライン書店ビーケーワンの「内容説明」によると、この本は「文芸評論集」。

http://www.bk1.jp/product/03028070
>文芸評論家としての原点ともいうべき読書遍歴と、貸本文化について論考。柴田錬三郎
>をはじめ、昭和20年代後半から30年代にかけての大衆小説について、熱い想いを
>綴ったユニークな文芸評論集。


さらに、上の引用にある「昭和20年代後半から30年代にかけての大衆小説」というの
には、「ああ」と得心がいった。

唐沢俊一の書評にある「高度経済成長期の子供たちはなぜ、ああもチャンバラが好き
や「1950年代末から60年代を通しての日本は、まさにチャンバラ・エージ、そしてその
ブームを陰で支えていたのが貸本屋に並ぶ多くの剣豪小説
」。このように高度経済成長期
と剣豪小説の流行、貸本屋の隆盛を無理矢理ひとつの時代に押し込めるのは、唐沢が
他で発表している文章でもやらかしている、奇妙な時代認識のズレによる誤りでしかない。

貸本屋やチャンバラは、高度経済成長期がはじまる前、昭和20年代からの流行だし
(チャンバラはもっと前にさかのぼるべきかも)、高度経済成長真っ盛りの昭和40年代
には、貸本屋はもう衰退していた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/高度経済成長期
>日本経済が飛躍的に成長を遂げたのは昭和30年代~40年代(1955年から1973年
>まで)の18年間である。


http://ja.wikipedia.org/wiki/貸本屋
>貸本の店は大衆娯楽小説や少年漫画などの単行本、成年・少年・婦人雑誌などを
>提供する場として1960年代初頭まで日本全国にあふれていた。1940年代末からは
>漫画を中心に貸本の店専用書籍も刊行され、『墓場鬼太郎』(『ゲゲゲの鬼太郎』の
>原型的作品)などを生んだ。1950年代後半からは図書館の充実、図書全般の発行
>部数の増加、出版社が販売する雑誌の主軸が月刊誌から児童や庶民でも安価に購入
>できる週刊誌へ移行した事などにより、一部の店舗が一般書店に転向したほかは急速
>に減少、現在貸本の店は極めて少数、かつ小規模で経営する店舗が存在するのみと
>なっている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/チャンバラ
>日本では古くは普遍的に見られた遊びで、当時の劇俳優等になりきる「ごっこ遊び」の
>延長でもあった。現在では時代劇の人気が衰え、乱暴な遊びがあまり好まれなくなっ
>たためにめったに見かけられないが、時代劇映画が流行した1960年代ごろまでは、
>男の子がもっとも熱狂する遊戯のひとつであった。


そのガセを、本の著者の主張であるかのように誤解されかねない紹介をされてしまった
『ぼくらの時代には貸本屋があった』の作者 (菊池仁) は、気の毒である。


関連ガセビア:
忍法帖シリーズは陰陽座もやってますね
「昭和三十年代の子どもたち」にしていればよかったかもの貸本屋
ものごころ ついたとたんに 力道山
「ノイローゼ」は 1955 年の流行語





http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1223130750/75-

75 :無名草子さん:2008/10/05(日) 16:26:38
本日の唐沢の朝日書評は、菊池仁「ぼくらの時代には貸本屋があった」だが・・。
この本を読んだ自分からみると、唐沢の論理は、例によって、変。

>高度成長時代期の子供たちはなぜ、ああもチャンバラが好きだったんだろうか。

>1950年代末から60年代の日本は、まさにチャンバラ・エージであり、そのブームを陰でささえていたのが貸本屋に並ぶ多くの剣豪小説であった。
>これは戦後の、企業国家としてあらたな秩序を整えつつあった日本で、そこに生きる大衆が”企業の論理”に取り込まれつつあることの反映だった。
>企業戦士である自分たちの姿を、「柳生武芸帖」での、組織の一員として戦う戦士たちに重ね合わせるか、または「眠狂四郎無頼控」の主人公・狂四郎の非現実的なまでのニヒリズムに共感を得て、ストレスを解消するか。

まず、「チャンバラ・ブーム」は戦後に始まったものではなく、戦前の「日本映画創設」のころからずっとあったもの。なぜ「高度成長期」に限定するのか・・。その理由は「後の唐沢の論理」につなげるための、いつものタイム・スリップ。
そして、この本で菊池が言っているのは、(机龍之助や丹下左膳のような例外を除いて)従来「明朗な美剣士」だったチャンバラ物のヒーローが、戦後、「戦争体験」(これは唐沢は完全にはしょっている)と「サラリーマン化」により、変質してしまったというもの。
新聞の書評の「短い枚数」で、その内容をおさめるのは難しいだろうが、あまりに単純化しすぎている。

戦後にも、山手樹一郎な「明朗もの」を書いて、長らく人気を保った作家がいたことも、この本では触れられている。

あと、
>いわゆる文芸評論的な臭みを排除、というより嫌悪している風があった。
>嫌味がなく、非常に好感が持てる。
というのも、唐沢の勝手な「願望」の押し付け。何が「好感が持てる」だよ・・。偉そうに。こういう「自分語り」をやるから、内容を紹介するスペースがなくなるのだ。
ちなみに、本書には、江藤淳や小林秀雄などの「文芸評論」からの引用が多数、存在している。

573 :無名草子さん:2008/10/08(水) 14:04:42
朝日の書評から
『ぼくらの時代には貸本屋があった』 菊池仁

>これは戦後の、企業国家として新たな秩序を整えつつあった日本で、そこに生きる大衆が“企業の論理”に取り込まれつつあることの反映だった。
>企業戦士である自分たちの姿を、『柳生武芸帳』での、組織の一員として戦う剣士たちに重ね合わせるか、または『眠狂四郎無頼控』の主人公・
>狂四郎の非現実的なまでのニヒリズムに共感を得てストレスを解消するか。どちらにせよ、貸本をその発信源とする、大衆の意識のうねりというものが、
>あの時代の日本にはあったのである。

「貸本をその発信源とする、大衆の意識のうねりというものが、あの時代の日本にはあったのである」
ってねえ、五味康祐の『柳生武芸帳』と柴田錬三郎の『眠狂四郎無頼控』は昭和31年に創刊された
「週刊新潮」の創刊号からの連載小説だぜ。なにが「貸本をその発信源とする」だ。

574 :無名草子さん:2008/10/08(水) 14:14:36
貸本より銀幕の方が比較にならないぐらい大衆に影響力あったよな。

579 :無名草子さん:2008/10/08(水) 14:35:37
>>573
 そもそも「企業国家」ってなに?

581 :無名草子さん:2008/10/08(水) 14:46:42
「貸本をその発信源とする」と言ったら、貸本専用に書かれた作品のことに
なっちゃうよね。

『貸本小説』末永 昭二 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B2%B8%E6%9C%AC%E5%B0%8F%E8%AA%AC-%E6%9C%AB%E6%B0%B8-%E6%98%AD%E4%BA%8C/dp/4757208553
>「貸本小説」とは、昭和30年代の貸本ブームのなかで、貸本店での
>レンタル専用として出版された小説のことだ。その多くが廃棄されて
>現物が残っておらず、しかも低級な大衆小説と見られたこれらの小説群は
>研究者からも無視され、記録も残っていないという。

582 :無名草子さん:2008/10/08(水) 14:47:50
>>579
一応「企業国家」という言葉はあるようだけど……。
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4275015444

585 :無名草子さん:2008/10/08(水) 15:22:13
>>582

企業国家;企業主義的な「社会国家」といわれる現代日本の特徴
という定義の造語のようだね。唐沢がこのことを指して書いているとは思えない。
企業戦士なんて言葉も出てくるので、大企業が発展しつつある当時の日本という
漠然としたイメージを対して考えもせずに「企業国家」と呼んだのでは。



2008/10/15  1:04

投稿者:トンデモない一行知識
http://tondemonai2.web.fc2.com/

まあ個人的には、文芸評論というものを数多く読んでいるわけではな
いせいか、唐沢俊一を上回る「臭み」のある文章の評論など、今まで
読んだ覚えはないわけですが。

朝日の書評は、『ぼくらの時代には貸本屋があった』の書評にかこつ
けて、「いわゆる文芸評論」(ってどんなの?) の悪口をいいたかっただ
けではないかと。

http://www.hirokiazuma.com/texts/karasawa.html
以前にコメント欄で引用したこれ↑の他に、こんな「悪口も↓

http://www.tobunken.com/diary/diary20041030000000.html
> 官能小説はいい小説である必要はない。いい官能小説であればい
>い。SFやミステリが、いい小説である必要がないのと同じだ。い
>いSF、いいミステリであれば、一般の小説における“人間が描けて
>いる”とか“構成が不自然でない”などという条件は一顧だにしなくて
>いいのと同じだ。小賢しい文芸評論家たちがチャンバラ小説や伝奇
>小説を上記“人間が……”“構成が……”などと言いだしたおかげで、こ
>れら大人気ジャンルは衰退し、日本独自のエンタテインメントジャ
>ンルが失われてしまった歴史をわれわれは経験している。横溝正史
>再評価ブームのとき、文芸評論家たちがどれだけ口を揃えて“低俗極
>まる悪趣味”“読むに堪えぬ悪文”などと叩いたことか、今では想像も
>つくまい。

何か「白馬は馬にあらず」っぽい言い草だなあとも思ったり、そんな
言い方で横溝を罵倒した評論家って誰のことだろうと思ったりします
が。

2008/10/14  10:03

投稿者:岡田K一

>また、「いわゆる文芸評論的な臭みを排除、というよりは嫌悪している風」とまで書いて
>おいて、すぐ後に「今回のこの著作では、いくぶん文芸評論的な部分もある」と続くのも、
>結局文芸評論的なのかそうでないのか聞きたくなる。

この本、私、読みましたが。
著者が嫌悪しているのは「純文学至上主義」であって、実際の評論スタイルは文芸評論的な方法を取っています。

唐沢の文章は、勝手に自分の願望を投影したものです。

2008/10/12  11:21

投稿者:トンデモない一行知識
http://tondemonai2.web.fc2.com/

をを、なるほど。銀幕-剣豪-チャンバラごっこという結びつきは、知
識としてあっても、自分の世代だと (個人的な環境のせいも大きい?)
実感がともないにくく、藤岡さんの証言のようなものがあると、ああ
当時はこんな感じだったのだなとしみじみ思うことができます。

私は昭和30年代後半生まれ (唐沢より 5 つ下) で、眠狂四郎などは親
が好むもの、テレビの時代劇でやっているもの、でした。親ではなく
自分らが好んで見るものとなると、時代ものならばサスケとか赤影と
か、もう剣豪ではなく忍者が主役という感じになっていたと思いま
す。

そういえば、貸本の影響うんぬんを語るならば、忍者系の方が強いん
じゃないかという気もします。白土三平の忍者武芸帳とか。

2008/10/12  8:34


 わたしは高度経済成長期の子供でした。チャンバラも大好きでした。それは、中村錦之助、東千代之介、大友柳太郎、月形龍之介、三船敏郎のフアンだったからでもあります。怪傑黒頭巾、宮本武蔵、柳生十兵衛、水戸黄門、忠臣蔵……。全部映画で知りました。2ちゃんの――
>貸本より銀幕の方が比較にならないぐらい大衆に影響力あったよな。
 というエントリの通りです。
 貸本の剣豪小説なんか一冊も読んだことはありません。

   
 
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