トンデモない一行知識の世界 OLD - 唐沢俊一の「雑学」とは -

一部で有名な唐沢俊一の一行知識に、ツッコミを入れたり派生トリビアを書いたり。
「愚かで分別のない人と思われたいなら、唐沢俊一のトリビアを引用しなさい。」

 
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2008/9/19  0:51

宇宙戦艦ヤマトのビッグネームファンになりたかった唐沢俊一?  本以外の媒体 間違い探し編

唐沢俊一のポケット
放送当時のヤマトは不人気で、一年の予定が半年で終わってしまった。
こりゃいかんと仲間を集めて、再放送の嘆願署名をテレビ局に送ったん
ですよ。 思えばあれが僕らの学生運動だったんだねぇ。

唐沢のラジオ録音をしていた」という人 (前エントリRead More 参照) からの
情報提供。

一年の予定が半年で終わってしまった」の「一年」というのは間違いで、人気が
あったら 3 クール (39 回) まで続ける、なければ半年で終わりという契約だった
とのこと (下の引用か Read More 参照)。

http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1220892240/241
>どちらにせよヤマト本放送は、
>唐沢俊一少年が高校一年生の10月から翌年の3月まで。

>つまり再放送で初見とちゃうの?

>じゃあ再放送嘆願署名って誰が送ったの?

>その頃の札幌に時空の裂け目かなんかあったんでしょうか。


http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1220892240/243
>ヤマトは「一年の予定が半年で」ではなく、最初の予定が最大3クール、1年では
>ない。

>打ち切り打ち切りと何度も言われているけれど、最初から「最大39回」となっていて、
>人気があったら39回までやりましょう。人気が出なかったら半年で終わりましょう。
>という契約だったんだよね。
>その人気があったら続ける予定の分のあらすじが企画書として残っていたから、
>後付で打ち切られたって話になっただけ。

>本放送終了後は「打ち切られた」なんて事は制作スタッフぐらいしかしらず
>「本当はもっと長かったハズなのに、途中で打ち切られた」とファンが知るように
>なったのは
>それらのファンクラブが動き始め(東京とか神戸のファンジン)関係者の話として
>「本来は復路の話もいろいろあったんだ」とインタビューが載った後。

>そう考えたって「再放送嘆願運動」を再放送を見て始めた唐沢の話はでたらめ
>ばかり。



で、ヤマトについては、唐沢俊一 まとめwiki - 経歴・年譜や、唐沢俊一検証blog
トラブルが多いのは意ジッパーりなせい?」「略して『スカスカ』になってしまうのは
マズいのでは。
」でも取り上げられているが、唐沢俊一がヤマトの再放送に貢献した
うんぬんというのは嘘と断定してよいだろう。なにしろ時系列が滅茶苦茶。

・「宇宙戦艦ヤマト」の最初の放送は 1974 年から 1975 年 3 月で、1958 年生まれ
 の唐沢俊一が高校一年生のとき。雑誌『SFマガジン』では「ヤマトはSFか?」という
 議論が熱く交わされていた。神戸の女子大サークルができていたという話も。

 しかし、雑誌 Zipper のインタビューで唐沢俊一は、「高校2年のころアニメの『宇宙
 戦艦ヤマト』が放送された
」といっている。

・唐沢俊一が高校二年生の 1975 年は、かつて志水一夫との共著『トンデモ創世記
 2000』で、『ペリーローダン』ファンクラブを結成して、「SFマガジン」にファンクラブ
 結成の広告を出したのといっていた (「SFマガジン」をチェックした人によると、該当
 する広告など存在しないとのこと) 年。その後で、スター・ウォーズのファンクラブを
 作ろうとしたが他の人に先を越されたのでヤマトにしたとしているが、だとしたら、
 唐沢俊一のヤマトファンクラブは、スター・ウォーズの 1977 年より前ということは
 あり得ない。

 この 1975 年には、『宇宙戦艦ヤマト』は、1975 年の星雲賞を受賞。兵庫県などで
 「ヤマト再放送運動」のサークルが、すでに立ち上がっていた。
 
・唐沢俊一が高校三年生の 1976 年は、唐沢俊一がかつての自著で、ヤマトに
 出会った年としていた年であり、おそらく Zipper のインタビューでいっていた
 「で、最初にやったのが、仲間たちと全員で『ヤマト』のレコードを1軒の店だけで
 買うんです。そうすると、全国でもその店でだけバーンと売り上げが上がる。
」を
 実行していた年。(これより前だと、ヤマトのレコードが発売されていない)。

 しかし、この時代、人気がないアニメのレコードが製作されて地方のレコード店に
 入荷していたとは考えにくいし、実際この年にはもうヤマトはブームになっていた
 からこそ、アニメとしては異例のアルバム『交響組曲宇宙戦艦ヤマト』が発売され、
 翌年TV版の再編集映画が公開されることが決定していた。

・1977 年は、唐沢俊一が北海道で「ファンクラブ活動をするためにワザと1浪した」
 と語っていた年。ヤマトのプロデューサー西崎義展を札幌に呼ぶなどの活動をして
 いたというが、西崎義展は当時、編集版映画の公開を控えており、日本各地の
 イベントに顔を出すのは特別なことでもなかった。

 1977 年 8 月 6 日『宇宙戦艦ヤマト』映画版 1 作目が封切り。徹夜組も出た人気。

http://ja.wikipedia.org/wiki/宇宙戦艦ヤマト
>しかし、近畿地方から始まり、のち全国的に実施された再放送で改めて注目され、
>人気が急上昇。再編集した劇場映画が公開される頃には社会現象とも言える大
>ブームとなっていた。


北海道は、特筆すべき活動をした地域とは、みなされていない模様。


http://www.23ch.info/test/read.cgi/books/1220072705/

343 :無名草子さん:2008/09/02(火) 18:36:32
唐沢の歴史の中では
・ペリーローダンのファンクラブ
・スターウォーズのファンクラブを作ろうとしたふぁ一番が取れずに断念。
・宇宙戦艦ヤマトのファンクラブ
という順番となってる。

唐沢はこれまで何度も「高校三年の時にヤマトと出会い」と語っていたが、今回は「高
校二年」に時間をシフトしている。これは高校3年ではファンクラブの作成が1976年
以降になってしまうという事。
実はヤマトのファンクラブは1976年の段階で日本各地に出来ていた。
そのファンクラブの動きが活発になり日本各地で再放送運動が行われ(1975年に神戸
で女子大サークルが始めたのが最初だとも言われている)、それを受けてヤマトに関す
るビジネスが動き始める。
1976年12月:アルバム「交響組曲宇宙戦艦ヤマト」
1976年12月:西崎義展の「オールナイトニッポン」異例の4時間スペシャル
1977年6月号:雑誌「月刊OUT」表紙に大々的にヤマトを使った特集号
1977年8月6日「宇宙戦艦ヤマト」映画版1作目が封切り
1977年8月:ムック「ロマンアルバム宇宙戦艦ヤマト」異例の大ヒット
もう、どう考えても1976年にヤマトを知り、誰ぞが書いた「ファンクラブを作りません
か?」に参加したって、日本各地のファンクラブの盛り上がりに参加していただけって
事でしょ?
それを高校2年、1975年スタートに変えるとかなり印象が変わってくる。
唐沢くん勉強したね。
でも1975年スタートだと、「スター・ウォーズ」のファンクラブを断念して、という話
がおかしくなるんだよね。
さらに「ペリー・ローダン」の公認ファンクラブは高校一年の頃?
というか、ペリー・ローダンに関しては日本事務局とかがシッカリしているので、ヘタに
そんなデマを言うと、公式に突っ込まれる危惧があるんだよね。

344 :無名草子さん:2008/09/02(火) 20:16:11
>>341-343の書き込みを参考にして追記しておいたのでよろしく。
ttp://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/

345 :無名草子さん:2008/09/02(火) 20:37:37
>>343
GJ!!!

唐沢の妄想垂れ流しを見ると
ヤマトが大好きだった中学時代の自分をバカにされるようで
非常に不愉快だ

346 :無名草子さん:2008/09/02(火) 21:11:48
あれだけアチコチで自慢げに「高校3年の時にヤマトと出会い」と書いておきながら、
この期に及んで足りない頭で時間トリックを仕掛けてくるとはw
ライター歴20年、最初から「ヤマトという日本アニメのエポックメイキング作を
再評価させたのは私だ」と言い続けて来ておいて、今さら「高校2年」って。

唐沢、マジに頭悪いんじゃないの?

でも自分の凄さを語るのなら
高校1年ぐらいで、ペリーローダン出版社公認を取り付けたファンクラブを結成し
SFマガジンに広告を掲載したという、早熟の天才
って部分の方が世間に大きくアピールすると思うよ。


347 :無名草子さん:2008/09/02(火) 21:21:58
唐沢たちのサークルが凄かった、という話に出てくる
「ヤマト関連のレコードを1店で買っていたので、この店のチャートが異常に...」
というのって、確かに変なんだよね。

まず打ち切りになったヤマト関連のレコードが
主題歌&エンディングの「宇宙戦艦ヤマト/真っ赤なスカーフ」以外に
リリースされていたんでしょうかね?
今だったら、色々CDが出ていますが、まだあの当時は
アニメがそこまでビジネスになるとは思われていなかったので
打ち切りになったようなアニメの「関連レコード」なんて
そんなに出ていたのか? というのが疑問

もし出ていたのなら、すでに再評価され人気が出た後なんじゃないか?
あるいは「札幌の1レコード店が注目された」なんて話自体なかった?

この辺は、当時からヤマトにはまっていて、それらのコレクターをやっていた人が
当時リリースされたヤマト関連レコードのデータベースとか作っていれば
すぐウソか(どっちにしろウソになってしまうけど)が判明するんじゃないかと。

ヤマト関連はキチッと決着つけたいので、唐沢に興味が無くても
ヤマトを汚されたくない、という熱烈なファンの方の参加を促したいです。

348 :無名草子さん:2008/09/02(火) 21:30:38
↓参考になるかしら?


[テレビ50年]1978年・「宇宙戦艦ヤマト」ブーム 若者がアニメに
2003.07.03 読売新聞東京夕刊

(略)熱狂的ブームを生んだ「ヤマト」だが、テレビ初放送時は目立たない存在
だった。視聴率は伸びず、全三十九話の予定が二十六話に短縮された。同じ時間
帯に、高畑勲、宮崎駿らによるフジテレビ系の名作アニメ「アルプスの少女ハイジ」
が放送され、その人気の影に埋没していた。

だが、子供のころからテレビアニメとともに成長してきた世代の一部には、「ヤマ
ト」のメッセージは確実に届いていた。地球を滅亡から救うため、決死の覚悟では
るか遠いイスカンダル星まで赴くという壮大な筋立てと、波動砲を始めとする斬新
なメカ描写--。「映像のインパクトがすごく、当時のアニメのレベルから抜きんで
ていた」。アニメ評論を手掛け、「世紀末アニメ熱論」などの著書がある氷川竜介
(45)は、高校二年生だった当時を振り返る。

第一次石油ショックを経て「成長の限界」が意識され、「ノストラダムスの大予言」
が流行していた。終末感が漂う時代背景もあり、毎回最後に映し出される「地球の
滅亡まであと×日」という字幕には現実味もあった。

氷川は、高校で「ヤマト」を宣伝して回り、ファンクラブにも参加。大学生になって
からはいち早く雑誌の「ヤマト」特集執筆にも加わった。「おたく」と呼ばれる若者
たちの第一世代だった。

349 :無名草子さん:2008/09/02(火) 21:39:51
>>348
氷川竜介氏は1958年兵庫県生まれ
唐沢俊一も1958年生まれ

氷川竜介氏は高校二年でヤマト(再放送)を知り、ファンクラブに参加。
大学生になって雑誌の「ヤマト」特集執筆にも加わった
Wikipediaによると
>大学在学中の1977年よりアニメ雑誌にアルバイトとして参加。
>当時アニメブームによって創刊されたばかりのアニメ雑誌は、
>草創期でプロのアニメ専業ライターがおらず、
>ファン活動を行なっていた者がプロ活動を始める格好の舞台となっていた。

つまり唐沢が北海道でウダウダやっている最中にすでに東京の大学に在学して
雑誌にプロとして記事を書いていたことになる。



350 :無名草子さん:2008/09/02(火) 21:42:03
氷川氏に1年遅れて東京に来た唐沢は、雑誌ライターどころか
グダグダと映画を見たり、あにどうに参加して
やっていた事は、ぴあの投稿欄に投稿していたレベル。


351 :348:2008/09/02(火) 21:46:24
>>349-350
レスしてくれてありがとう


352 :無名草子さん:2008/09/02(火) 21:50:38
唐沢も「北海道のファンクラブを存続させるため」とか言わずに
さっさと上京して、まだ創世記だったアニメ雑誌の編集部に潜り込めば
本当にその頃からプロとして活動できたのにね。

でも唐沢って、「他人に使われている」みたいな立場ダメでしょ?
おそらく一介の編集部員という立場はすぐ我慢できなくなると思う。

これまで唐沢は色んな団体と関係しているけど
「あにどう」→問題発言が多く、嫌われて退会
「イッセー尾形」→客煽りに失敗し解雇
みたいな物が多い
演劇とか小劇団に参加する事を喜んでいるみたいな節があるし
演劇関連に関して色々な意見などを語っているけれど
別段80年代は劇団に参加したというエピソードは無いんだよね。
参加するのは「唐沢先生」と煽てられるようになってから。

つまり、この人は叩き上げとして、下っ端扱いで走り回っている時代を
一度も経験していないんだよ。就職もバイトもしたことがない。
常に自分がその場を仕切れるような状態じゃないとダメなんだろうね。

359 :無名草子さん:2008/09/02(火) 23:03:20
宇宙戦艦ヤマトに関して言うと
本放送の最中(1974.10~1975.3)の段階ですでに
雑誌「SFマガジン」では『あれはSFであるか?』という
熱い議論が巻き起こっている。
中高生がこの作品に飛びついたワケではなく、その段階で
オトナのSFファンがこの作品について語り合っている。
その段階ですでにSFマガジンのレター欄には
「ヤマトファンクラブ」が登場している。

唐沢、本土から離れた北海道だから情報も乏しかったのかも知れないが
(青函トンネルの営業開始は1988年)適当な事を言っているなよ。
ヤマトファンはオマエが「俺が再評価させた」というデタラメに
怒り狂い続けている。もう二度と、ヤマトに関した話をするな。

374 :無名草子さん:2008/09/03(水) 07:24:47
未だ、ヤマトファン活動現役の40代の
俺様が来ましたよw

ヤマトのファンクラブ活動経由で業界入りした
先輩方の名前は、ヤマトのファン活動を通して
結構聞いたけど、唐沢氏の話題が出たことはないな。

関与していたとしても、ブームになってから「バスに
乗り遅れまい」と参加した組だったのを針小棒大に
語っているだけじゃないのかね?

376 :無名草子さん:2008/09/03(水) 09:05:25
ヤマトの話って、「おれがヤマトのブームの仕掛け人だ!」という一方的な自慢以外
客観的なものがなにもないうえに、その後の唐沢の行動にもまるでからんでこない。
浪人時代熱狂したことがあるってくらいのことで、後年無理やり手柄話に改竄したんだね。
こいつの人生って全部そう。

*ペリー・ローダンファンクラブ創設、自費でSFマガジンに広告を載せる(嘘)。
*ヤマトブームの仕掛け人(嘘)。
*ガンダムで手塚治虫と論争(「ピア」の投書欄荒らし)。
*イッセー・尾形に関する評論が注目される(公演会場で配られるアンケートの記事)。
*と学会創設メンバー(嘘)。
*雑学王(ほとんどが、ガセとパクリ)。
*作家(50にして処女作上梓。糞本として話題に)。

379 :無名草子さん:2008/09/03(水) 09:52:41
http://www.dot-anime.com/tb/yamato/interviews/03_2.html
>※15 ファンクラブ
>1975年頃から全国各地にヤマトの私設ファンクラブが結成された。
>代表的なファンクラブに、大学生が中心となって作られた「コスモ
>バトルシップ・ヤマト・ラボラトリー」(通称・ヤマトラボ)や、
>そのスタッフが再結成した「コスモ・バトルシップ・ヤマト・
>アソシエイション」(通称Y・A)などがある。本サイトのブログで
>「あの頃ヤマトがすべてだった」を執筆している小牧雅伸氏は、
>このファンクラブの出身である。

380 :無名草子さん:2008/09/03(水) 09:56:50
唐沢が「俺がヤマトを」と語り始めたのはいつ頃からなんだろ。
初期の本(唐沢商会など)では、オタクというよりゲテな人という印象だったけど
それがオタクの人(古い漫画を扱い始めてから?)となった時に
多くいるオタクの頂点に立ちたいがために
オタクの原点は宇宙戦艦ヤマトにあり、そのヤマトがブームになったのは俺のおかげ
とか言い始めたんじゃないの?

でも宇宙戦艦ヤマトに関して、これといった発言をした事が無い。
北海道のチンケなサークルでウダウダやっていただけで
同じ頃に東京などで開催されていたファンイベントなんかには
参加することもなく、派手な想い出もないんだろうね。

383 :無名草子さん:2008/09/03(水) 10:18:29
>>380
岡田斗司夫との交際がはじまってからではないかな?
岡田がオタクを持ち上げて商売するようになり、それに唐沢も乗っかった
構図になっていたわけだが、唐沢側にも岡田のような過去の活動の根拠が
必要になった。そこで持ち出されたのがヤマトのファン活動だったと。
西崎Pが札幌に来たことはさすがに事実だろうから、それを思い切り拡大
したと。しかし、ファン活動には古くから関わっていた志水一夫あたりが
ヤツの嘘を見抜けなかったのは謎。

393 :無名草子さん:2008/09/03(水) 11:14:13
ペリーローダンの公認ファンクラブを発足
ヤマトブームのキッカケを作ったファンクラブを運営

唐沢が自ら発したお話だが
ペリーローダンの歴史にも
宇宙戦艦ヤマトの歴史にも
「唐沢俊一」という名前が一切出てこない。
なぜ唐沢先生はそんな凄い事をしたのにスルーされているんですか?

やはりWikipediaのその項目は書き入れるべきだと思うんですよね。


394 :無名草子さん:2008/09/03(水) 11:17:39
そうだね、ペリーローダンの熱狂的ファンにも
宇宙戦艦ヤマトの熱狂的ファンにもこの事を知って欲しい。


http://www.23ch.info/test/read.cgi/books/1220892240/

229 :無名草子さん:2008/09/10(水) 22:04:22
今日は唐沢のラジオ番組に半田健人が来たときの録音を聴いてみましたが。

半田の濃すぎる70年代歌謡曲話に、
頷くか同意の言葉を被せるしか出来なかった唐沢がなんとも哀れで。

本物を前にした似非第一世代ヲタなんてあんなもんなんだろーなぁと。

231 :無名草子さん:2008/09/10(水) 22:06:38
>>229
その半田は現在、静岡のラジオ局で歌謡曲ネタのレギュラー番組をやっているが
知泉はその番組のブレーンをやっているらしいよ。

235 :無名草子さん:2008/09/10(水) 22:25:56
>>231
そりゃ凄いやw
唐沢はマジにもう音楽の話しない方がいいぞ。
半田は60~70年代歌謡だが、知泉はどの時代にも手を広げて話を展開している。
唐沢がつけいる場所はない。

かつて唐沢がコミックソングについて書いた文章は、薄く
普通に有名処を並べて、これといって目新しい事は書いてなかった。

この人、どのジャンルも「出来ますよ」と原稿依頼を受け
適当に目に付いた資料を並べて原稿を書いているだけでしょ。
その資料だけで文章を書くから、資料自体が間違っていても気付かない。
本当にクズだよ、この人は。

241 :229:2008/09/10(水) 23:08:56
>>235
ゲストの半田に完全に負けていた唐沢が、唐突に“その当時の自分は…”と語り始めたのが例のヤマトファンクラブの話。
「放送当時のヤマトは不人気で、一年の予定が半年で終わってしまった。
こりゃいかんと仲間を集めて、再放送の嘆願署名をテレビ局に送ったんですよ。
思えばあれが僕らの学生運動だったんだねぇ」

と、自らのオタク活動をアピール。
唐沢にとっては伝家の宝刀なんでしょうね。
若造の後付け知識とちゃうぞ、みたいな。

でもちょっと待てよ?
唐沢はいかにも本放送からヤマトをチェックしてたような口振りだけど、
ヤマトを初見したの高三の時なんだよね?
最近高二の時にタイムスリップしたみたいだけど。

どちらにせよヤマト本放送は、
唐沢俊一少年が高校一年生の10月から翌年の3月まで。

つまり再放送で初見とちゃうの?

じゃあ再放送嘆願署名って誰が送ったの?

その頃の札幌に時空の裂け目かなんかあったんでしょうか。

恐るべし唐沢脳です。

243 :無名草子さん:2008/09/10(水) 23:25:13
>>241
ヤマトは「一年の予定が半年で」ではなく、最初の予定が最大3クール、1年ではない。

打ち切り打ち切りと何度も言われているけれど、最初から「最大39回」となっていて、
人気があったら39回までやりましょう。人気が出なかったら半年で終わりましょう。
という契約だったんだよね。
その人気があったら続ける予定の分のあらすじが企画書として残っていたから、
後付で打ち切られたって話になっただけ。

本放送終了後は「打ち切られた」なんて事は制作スタッフぐらいしかしらず
「本当はもっと長かったハズなのに、途中で打ち切られた」とファンが知るようになったのは
それらのファンクラブが動き始め(東京とか神戸のファンジン)関係者の話として
「本来は復路の話もいろいろあったんだ」とインタビューが載った後。

そう考えたって「再放送嘆願運動」を再放送を見て始めた唐沢の話はでたらめばかり。

244 :無名草子さん:2008/09/10(水) 23:32:40
SFは高校3年で読むの止めたのかな。「砂漠の救世主」は100冊目だから。
当時の「SFファンを名乗るならハヤカワ文庫100冊読んでなきゃ」というファンダムの常識には該当するが・・・。

ttp://www.tobunken.com/diary/diary20000828000000.html
>>家の書棚を眺める。
>>ここに収められているのは主に中学一年から高校三年(予備校の一年間含む)の間の私の購入書籍であるが、
>>今の私の趣味嗜好に比べ、当然のことながらかなり乖離している。
>>気がつくのは海外翻訳ものをていねいに読んでいることと、SFへの傾倒だろう。早川と創元推理のSF文庫を、
>>一番からコンプリートに読み尽くそうなどという意気込みで読んでいた様子が見えてホホエマシい
>>(創元SFは『神の目の小さな塵』、早川は『デューン・砂漠の救世主』あたりでザセツした模様である)。


249 :無名草子さん:2008/09/11(木) 01:05:02
>>244
>>(創元SFは『神の目の小さな塵』、早川は『デューン・砂漠の救世主』あたりでザセツした模様である)。

なんで、普通に読書って事なのにザセツなんてするの?
好きで読んでいたんじゃないの?
好きでも無いのに「SF読んでいるってなんかカッコイイから」
みたいなポーズで読んでいたのかね?

自分も、厨房の頃から大学時代から就職してからしばらくは
ハヤカワSF文庫は新刊はすべて購入して、そんな意気込みもなく
それなりに読んでいたけどなぁ

そんなに必死に読んでいたワリに唐沢ってSFへの造詣が浅いんだよなぁ
「スペオペを読んでいた」とか読んでいたという宣言だけで
それ以上の事を書いた事がない。
どこらへんにどうハマっていたとか不明で、読んでいたようには思えない。

250 :無名草子さん:2008/09/11(木) 01:11:32
具体的にSF作品について語った文章とかあったっけ?>唐沢

605 :無名草子さん:2008/09/14(日) 02:23:43
『トンデモ一行知識の逆襲』 P.170
-------
高校のとき、お決まりでみんなが古代進と森雪のセックス話をてんでに
作って夜の作業に供していたとき、私の作ったストーリィの巧みさに全
クラスが驚嘆(カトリックの男子校だった)し、ひとりが、
「カラサワ、お前、作家になれや」
と薦めた。私のコンニチの道を決めたのは、この一言、古代進と森雪の
セックス話だったかも知れぬ。
-------
ヤマトのファンクラブの自慢話(再放送以後に参加したくせいに)以外で、
ヤマトに言及している数少ない文章のひとつが、これ。

「古代進と森雪のセックス話」が「お決まり」で、どんな巧みなストーリィw
だったか知らんが、「全クラスが驚嘆」って、どんな高校だったのやら。



   
 
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