トンデモない一行知識の世界 OLD - 唐沢俊一の「雑学」とは -

一部で有名な唐沢俊一の一行知識に、ツッコミを入れたり派生トリビアを書いたり。
「愚かで分別のない人と思われたいなら、唐沢俊一のトリビアを引用しなさい。」

 
旧 URL は、http://diary.aol.com/yzuc9ww/285.html
文字列の一括置換をかけた都合上、旧ブログのコメント欄および2ちゃんねるのスレからの引用の中の URL も全部新 URL に置き換わっていますことを、あらかじめご了承ください
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/ で続きの Blog をやっています
   
 

2008/3/16  1:10

銅銭をどうせいというのかと……  『トンデモ一行知識の世界』間違い探し編

『トンデモ一行知識の世界』の P.190 欄外
・十二~十七世紀の日本では、中国の銅銭を大量に輸入して
 自国のお金として使っていた。
12 世紀、平清盛の時代からというのは正しいとして、15 世紀の足利義満の頃に、
中国が国内の貨幣不足を理由に輸出禁止を決めてしまっているから、「十七世紀」
というのはガセ。

そもそも中国銭が大量に輸入されるようになったのは、貨幣不足もあっただろうが、
当時の中国が日本より銅安・金高であり、その中国の相場を適用した交換により
多額の利益を得られたから。[1] しかし、15 世紀になると、金と銅銭の価格比が
日本・中国ともにほぼ同じになったので、貿易のうまみはなくなり、日本からの主な
輸出品が日本刀に変わったところでの中国の輸出禁止措置だった。

ただし、貨幣需要の高まりという国内事情のため、朝鮮、琉球、安南(ベトナム)
からの銭貨の輸入は続けていたそうだ [2]。

また、輸出禁止措置の後も密貿易により大量に中国銅貨が流入していたとしている
資料もある [3] が、それでも室町末期、日本輸出専用銅貨の永楽通寳の頃には
大量の供給はなくなったとしているので、「大量に輸入」はせいぜい 16 世紀まで。

江戸幕府が永楽通寳を通用禁止としたのが 1608 年だった [4] から、大量の輸入は
室町中期、15 または 16 世紀まで、自国のお金として流通していたのは江戸初期、
17 世紀までと書いたならばガセにはならなかったと思うが……。


[1] http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_07.htm
>対中国貿易が活発化するなかで12世紀半ばころから銅銭の輸入が始まり、
>ほどなく銅銭は中国からの最も重要な輸入物となった。中国銭と金との交換に
>際しては、 わが国よりもはるかに銅安・金高の中国相場が適用され、交換の
>利益が多額にのぼったことから、中国銭が金との交換物として受け入れられた。
〈略〉
> 中国銭がわが国において一般受容性のある貨幣として受け入れられていく
>ためには、 その通用力を強制・保証しうる権威者によって、それが大量に市中に
>投入されることが不可欠となる。このことから考えると、中国銭の交換手段として
>の利用は、当時、 日宋貿易を掌中に納めるともに軍事・経済面での権威者で
>あった平清盛による大輪田泊 (現神戸港)の築港、蓮華王院(現三十三間堂)
>の建立、厳島神社の造営といった大型建設プロジェクトの遂行を契機として
>始まったと思われる。


[2] http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_08.htm
>義満が日明貿易を開始した15世紀になると、金と銅銭の比価は日本・中国とも
>ほぼ同じ水準になり、金を輸出して銅銭を輸入しても儲からなくなった。このような
>金銅比価平準化の動きを受け、中国への輸出品の主力は金から日本刀に変わり、
>わが国は東アジア地域における有数の武器輸出国家となった。
〈略〉
>やがて15世紀半ばに至ると、国内における銭貨不足を理由として中国が輸出
>禁止措置を発動するに至ったため、永享4年(1432)以降、銭貨の輸入はほとんど
>途絶えることになった。これに対し、室町幕府では、わが国での貨幣需要の高まり
>を満たすべく、朝鮮、琉球、安南(ベトナム)からも銭貨を輸入した。


[3] http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2006/11/post_0fac.html
>中国・北宋末期から大量の銅銭輸出のため、南宋の初めの頃には「銭荒(せん
>こう)」といわれる銭飢饉が起きている。銭の禁輸措置も採られたが、貨幣需要の
>高まった日本との密貿易は止められず、その後も銅銭の流出は続いた。

>しかし、何時までも北宋銭が中国・元に残っているわけではなく、やがて枯渇する
>ことになった。〈略〉中国が元から明の時代になった当初は、紙幣発行過多による
>インフレで破綻した元の行いを反面教師に、銅銭を発行した。しかし長続きせず、
>わが国への輸出用に造られたといわれている「永楽通寳」などの銅銭がわが国に
>もたらされたに過ぎなかった。


[4] http://ja.wikipedia.org/wiki/永楽通宝
>慶長13年(1608年)には通用禁止となり、寛永通宝等の国産の銭に取って代わ
>られた。



   
 
HOME

 

 

inserted by FC2 system