2008/3/4 23:41
劉備が女性だったという歌舞伎もあったっけ 『トンデモ一行知識の世界』間違い探し編
『トンデモ一行知識の世界』の P.37~P.38
「息子の劉禅が無能ならお前が代わりを務めろ」を、条件抜きの「息子の代わりに国を
治めてくれ」に変更するのは劣化コピーでは。劉備はその前に、「もし後継ぎ(=劉禅)が
補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ」とも言っているのだし [1]。
劉備に答えて、孔明は「股肱の力を竭し、忠貞の節を効し」と、劉禅を補佐する立場を
とることを表明し、劉備はその後で息子たちを呼び寄せ、努力を怠るなよとか遺言した。
「諸葛亮がお前は優秀だといっていた」 と言ったのはそのとき [2]。
「諸葛亮集」は、「諸葛亮の文章を陳寿が編纂」したとされているので、「諸葛亮が
書いたか?」を「自分の書いた諸葛亮集」に変更してしまうのも、劣化コピーっぽい。
なお、この劉備の遺言のエピソードは孔明の優秀さをことさら示すものとはあまり解釈
されていないようで (それは他にいくらでもある)、劉備の度量の広さを讃えるものや、
あくまで臣下として仕えるという孔明の忠信を褒めるものと、劉備は国を簒奪されるのを
警戒して釘をさしたのではないかと疑うものなどがある。[3]
まあ訂正前の文章も (言っては悪いが) 何を主張したいのか意味不明なきらいはあるが、
不正確さを増してまでつけた落ちが「自己宣伝くさい」では、何だかしまらない。
[1] http://ja.wikipedia.org/wiki/諸葛亮
>死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子
>可輔、輔之。如其不才、君可自取」〈略〉もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物
>であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい)
>と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之
>以死」(臣敢へて股肱の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、之を継ぐに死を以てす:
>私は思い切って手足となって働きます)と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。
>諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。
[2] http://www.geocities.co.jp/Hollywood/9290/tegami/ryu-ryu.html
>・劉備より劉禅へ場所 白帝城から成都へ
> わしの病気は初めただの下痢だったが、その後、余病を併発し、もはや回復する
>望みも薄くなった。
> 人生五十まで生きれば短命といえないが、私はすでに六十余歳。恨むことも悔やむ
>こともない。ただひとつ心にかかるのはおまえたち兄弟のことだ。
> 先日、祭酒の射援が見舞いに来たとき、「諸葛亮殿は、劉禅様が才能・人徳ともに
>人並み優れ、その成長ぶりは驚くばかりだと感嘆しております。」と話していたが、
>それが本当ならば、心配することは何もない。要は、努力することだ。くれぐれも努力を
>怠ってはならぬ。
〈略〉
> 陳寿 諸葛亮集より
[3] http://sangokushiengi.com/2007/12/post_18.html
>陳寿の評:〈略〉国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかった
>ことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。
>明末の学者・王夫之は劉備の遺言について、君主として出してはいけない「乱命」である
>としている。簒奪を警戒する劉備が、諸葛亮および他の臣下に対し釘を刺したのではない
>かという見解に基づくものである。
その他参考 URL:
- http://seasons3000.hp.infoseek.co.jp/umi/ryu000.html
- http://www.asahi-net.or.jp/%7Enp5k-mkn/sangokushi/seishi/s_yuigon.html
- http://ueno.cool.ne.jp/souryuu/syu.html
三国時代の劉備は、死に際に諸葛亮に息子の劉禅が無能なら
お前が代わりを務めろと言ったが、息子には「諸葛亮がお前は
優秀だといっていた」と言っていた。しかもこれは、諸葛亮集に
載っている。諸葛亮が書いたか?
というのがあった。ネタはいいのだが、冗長である。ちょっと添削して
諸葛亮孔明は、仕えた劉備に「息子の代わりに国を治めてくれ」と
遺言されたほどだったが、これは自分の書いた諸葛亮集に載っている
エピソードで自己宣伝くさい。
というふうにすれば、ドラマなどで神の如き明智を見せる孔明にも
人間味があった、というエピソードになり、ぐっとひきしまる。
「息子の劉禅が無能ならお前が代わりを務めろ」を、条件抜きの「息子の代わりに国を
治めてくれ」に変更するのは劣化コピーでは。劉備はその前に、「もし後継ぎ(=劉禅)が
補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ」とも言っているのだし [1]。
劉備に答えて、孔明は「股肱の力を竭し、忠貞の節を効し」と、劉禅を補佐する立場を
とることを表明し、劉備はその後で息子たちを呼び寄せ、努力を怠るなよとか遺言した。
「諸葛亮がお前は優秀だといっていた」 と言ったのはそのとき [2]。
「諸葛亮集」は、「諸葛亮の文章を陳寿が編纂」したとされているので、「諸葛亮が
書いたか?」を「自分の書いた諸葛亮集」に変更してしまうのも、劣化コピーっぽい。
なお、この劉備の遺言のエピソードは孔明の優秀さをことさら示すものとはあまり解釈
されていないようで (それは他にいくらでもある)、劉備の度量の広さを讃えるものや、
あくまで臣下として仕えるという孔明の忠信を褒めるものと、劉備は国を簒奪されるのを
警戒して釘をさしたのではないかと疑うものなどがある。[3]
まあ訂正前の文章も (言っては悪いが) 何を主張したいのか意味不明なきらいはあるが、
不正確さを増してまでつけた落ちが「自己宣伝くさい」では、何だかしまらない。
[1] http://ja.wikipedia.org/wiki/諸葛亮
>死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子
>可輔、輔之。如其不才、君可自取」〈略〉もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物
>であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい)
>と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之
>以死」(臣敢へて股肱の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、之を継ぐに死を以てす:
>私は思い切って手足となって働きます)と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。
>諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。
[2] http://www.geocities.co.jp/Hollywood/9290/tegami/ryu-ryu.html
>・劉備より劉禅へ場所 白帝城から成都へ
> わしの病気は初めただの下痢だったが、その後、余病を併発し、もはや回復する
>望みも薄くなった。
> 人生五十まで生きれば短命といえないが、私はすでに六十余歳。恨むことも悔やむ
>こともない。ただひとつ心にかかるのはおまえたち兄弟のことだ。
> 先日、祭酒の射援が見舞いに来たとき、「諸葛亮殿は、劉禅様が才能・人徳ともに
>人並み優れ、その成長ぶりは驚くばかりだと感嘆しております。」と話していたが、
>それが本当ならば、心配することは何もない。要は、努力することだ。くれぐれも努力を
>怠ってはならぬ。
〈略〉
> 陳寿 諸葛亮集より
[3] http://sangokushiengi.com/2007/12/post_18.html
>陳寿の評:〈略〉国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかった
>ことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。
>明末の学者・王夫之は劉備の遺言について、君主として出してはいけない「乱命」である
>としている。簒奪を警戒する劉備が、諸葛亮および他の臣下に対し釘を刺したのではない
>かという見解に基づくものである。
その他参考 URL:
- http://seasons3000.hp.infoseek.co.jp/umi/ryu000.html
- http://www.asahi-net.or.jp/%7Enp5k-mkn/sangokushi/seishi/s_yuigon.html
- http://ueno.cool.ne.jp/souryuu/syu.html